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20230409

Date: 2023-04-09
Last Edited: 2023-04-09 05:23:00

マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んだ。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神/マックス・ヴェーバー, 大塚 久雄|岩波文庫 - 岩波書店
マックス・ヴェーバー 著
https://www.iwanami.co.jp/book/b248662.html
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神/マックス・ヴェーバー, 大塚 久雄|岩波文庫 - 岩波書店

読んだ背景としてはキャリアというものを考えた時、それは資本主義社会でのキャリアパスであり、その前提にある資本主義社会について理解する必要があると感じたから。「どういう仕事をすべきか」を単体で考えてもいまいち浮かんで来ず、それなら今巻き込まれている社会がどういうものかという前提から演繹してみようと思ったからだ。

この本の大きな目的は以下のような逆説を解き明かすことにある。

ヨーロッパでは営利以外のなにものか、とりわけ営利を敵視するピュウリタニズムの経済倫理(世俗内的禁欲)が、逆に歴史上、近代の資本主義というまったく新しい社会事象の生み出されるさいに、なにか大きな貢献をしているのではないか。

(マックス・ヴェーバー,大塚 久雄. プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神 (Japanese Edition) (p.583). Kindle 版.)

そのためにカルヴァン派のプロテスタンティズムの教義などを研究していくという内容になっている。その教義による帰結は以下のようにまとめられている。

どの教派においてもつねに、宗教上の「恩恵の地位」をば、被造物の廃状態つまり現世から信徒たちを区別する一つの身分(status)と考え、この身分の保持はその獲得の仕方はそれぞれの教派の教義によって異なるけれどもなんらかの呪術的=聖礼典的な手段でも、懺悔による赦免でも、また個々の敬な行為でもなくて、「自然」のままの人間の生活様式とは明白に相違した独自な行状による確証、によってのみ保証されうるとした。このことからして、個々人にとって、恩恵の地位を保持するために生活を方法的に統御し、そのなかに禁欲を浸透させようとする起動力が生まれてきた。ところで、この禁欲的な生活のスタイルは、すでに見たとおり、神の意志に合わせて全存在を合理的に形成するということを意味した。しかも、この禁欲はもはやopussupererogationis(義務以上の善き行為)ではなくて、救いの確信をえようとする者すべてに要求される行為だった。こうして、宗教的要求にもとづく聖徒たちの、「自然の」ままの生活とは異なった特別の生活は(…)もはや世俗の外の修道院ではなくて、世俗とその秩序のただなかで行われることになった。このような、来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだったのだ。

(マックス・ヴェーバー,大塚 久雄. プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神 (Japanese Edition) (pp.441-443). Kindle 版.)

反カトリック的な立場から教会による呪術的な手段による宗教的救済を拒否したプロテスタンティズムは、結果として世俗内での禁欲を要求するようになった。そうした禁欲は「予定説」といった教義により神が創造した合理的な世界に貢献し続けるという形を取る。それにより、金銭によって欲望を満たすことを拒否しながらも積極的に利潤の追求を行うという行動様式が人々に倫理的義務として課されるようになった。

そうなると、結果としてとても儲かってしまう。なぜなら利益を浪費することなく更なる投資に活用するからだ。それによって成立したのが近代資本主義ということになる。

さらに、この近代資本主義のシステムはその道徳的基礎を失ってなお私たちの生活を支配し続けている。なぜなら禁欲的に利潤を追求し続けなければ資本主義社会の中で生存していくことができなくなってしまったからだ。

われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人直接経済的営利にたずさわる人々だけではなくの生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう。

(マックス・ヴェーバー,大塚 久雄. プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神 (Japanese Edition) (p.565). Kindle 版.)

資本主義社会を素朴にイメージした際に、ひたすら利潤を追求するのは人間が欲望を満たすためだと考えがちだと思う(自分がそうだった)。しかしながら、ヴェーバーによればそれは全く間違いで、利潤の追求はむしろ禁欲的な行為なのである。

私たちは自分の欲望を満たすためではなく、社会によって禁欲を強制されて今日も働いている。それによって得られるはずだった「神による恩寵の確証」はすでに失われている。というより資本主義というシステムだけ輸入した日本においてそれは最初から存在していない。ただ資本主義社会で生き残るためにはそうせざるを得ないからそうしているのである。

実生活に即して考えると例えば就活生はエントリーシートの志望動機で「お金を稼いでデカい家を買いたいです!」とは書かずにどうやって企業や社会に貢献できるのかを書く。一見不思議に見えるが、禁欲的に資本主義社会に貢献できる人間を選抜するプロセスであると考えると納得がいく。

キャリアを考えるという最初の目的に立ち返ると、まず「(最大多数の)欲望の充足を最大化する」といったことを目標にするのは少なくとも資本主義社会での職業倫理に合致するものではないことが分かった。「天職人たらざるをえない」私たちにとってそうした目標を掲げたとしても適応的ではない。ではどうするのかという点についてはまだ結論が出ないのでさらに読書を進めていこうと思う。

©︎2021 Yuki Oshima