映画『トラペジウム』を観た。
「アイドルを目指す少女の青春物語」と銘打ちつつ、どちらかといえば「アイドル」部分ではなく「青春」の方が主題な映画。
主人公の東ゆうは輝きを放つアイドルに憧れていて、そのようなアイドルになることを至上の目標としている。ただそれがうまくいかないことによって、そもそも輝きを放つとはどういうことなんだろう?という作品のテーマが浮かび上がってくる。この問いへの答え方がとても素晴らしいと思った。
前半で東西南北のメンバーとアイドルグループを作るために打算的に出会い、交流を深めたこと。その後もアイドルグループとして様々な活動をしたことが一面では他のメンバーの人生を良い方向に変えることにつながっていた。アイドルとなる以前にまず一人の人間としての東ゆうが誰かの人生を照らすことができていた。例え仲良くなるきっかけが嘘だとしても、実際にそれぞれの人生が交差して動き出した。これは虚像としてのアイドルついても同じことが言えると思う。
モノローグ形式のためかなり韜晦というか、露悪的に自分の振る舞いを描写していた前半に対して最後に他のメンバーからの解釈によって彼女のこれまでの行動に光が当たる。アイドルとして成功するかどうかという以前に、ただ何かを目指して努力している人はそれだけで輝く星たり得るというのがとても優しい人間観だと思った。
その後で東ゆうは結局アイドルになってしまうけど、それもこの経験によって「光ること」から「誰かを照らすこと」へと考え方が変わったからではないだろうか。ただ一人で光を放っていても意味がない。誰かを照らすから輝いていることになる。「わたし一人では、アイドルになれないんだって。」インタビューの場面で(当時は打算でしかなかった)ボランティア活動を肯定的に語ることができているのも、彼女の中でその活動で誰かを笑顔にできたことに意味があったと考えられるようになったからではないだろうか。
また解釈やそれぞれの視点によって見え方が変わるということもかなり意識的に描かれていたように思う。東ゆうの行動への解釈もそうだし、写真を撮ることも別の視点から対象を映し出すことになる(さらに言えばアイドルという職業が常に「見られること」を含んでいる)。最後のシーンでの「トラペジウム」と題された文化祭での5人の写真は、本人たちが意図したタイミングで撮られたものではない。しかしそのタイミングだからこそ写真を撮った工藤真司には星々(=トラペジウム星団)のように映った。
少しメタ的な視点では原作小説をトップアイドルが書いていることもあって、アイドルを目指したり、挫折してしまった少女たちへの想いも感じた。東西南北のそれぞれが作詞して、誰に聞かせるでもなくただあの場でだけ歌った曲も彼女たちの心でずっと大切なものとしてあり続けるはずで、アイドルとして成功することだけではなくそもそも誰かと思いを一つにして一緒に歌うこと自体がとても素晴らしいのだというのがとても良い描き方だと思う。